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ニール・アスピノールの家族を代理して発表されたアップルの声明文


ニール・アスピノールは2か月前肺がんで体調を崩し、ニューヨークのスローン・ケタリング病院で治療を受けていたが、短い闘病生活の後、輝かしい人生を終えた。
彼は66歳だった。彼の妻スージーと5人の子供たちが、彼の最期を看取った。
ニールの家族は、「彼は私たちの世界の中心で、今でもそれは変わりません」と述べた。
ニール・アスピノールは、誰よりもビートルズにとって身近な存在でした。
彼はビートルズのローディーから、アップルの社長を努めるようになり、ビートルズ・ビジネスに貢献した。
ニールは否定するかもしれないが、彼は音楽およびエンタテイメント業界で、40年間にわたり、「真の5人めのビートル」とも言われ、音楽業界で賢い男のひとりとして尊敬されている。
3月23日、ポール、リンゴ、ヨーコ、オリビア、アップル・コープスからの声明が出された。「ビートルズと、過去および現在の全アップル・コープス・ファミリーは、ニールの家族へ心からお悔やみの気持ちを伝えたいと思います。忠誠心ある友人、相談相手、そして経営責任者として、彼の信頼できる指導と助言は、後世にずっと残る遺産です。彼の友人や彼を愛する者は皆、彼がいなくなったことを非常に寂しく思うでしょう。そしてニールの想い出はずっと心に生き続けるでしょう」。
ニールは1941年10月、北ウェールズのプレスタティンに疎開したリバプール出身の両親のもとに生まれた。彼はリバプールで学生時代を過ごし、リバプール・インスティチュートでポールとジョージと友達になった。彼らは「マッド・ラッド(狂った奴)」という名のギャング団を結成し、防空壕の裏で一緒にたばこを吸ったり、「一緒にばかなことをした」りした。ティーンエイジャーのときに、ジョンもマッド・ラッドに参加した。
ニールは会計学を学び、短いあいだ会計士の仕事に就いたが、友人たちがビートルズを結成したことが、彼の人生を変えることになった。彼はずっとビートルズのそばにいた。ニールはビートルズ最初のロード・マネージャーであり、彼らのぼろぼろのバンの運転手だった。そして、ビートルズの世話役、照明係、相談役、交渉係、パーソナルアシスタントの役割もし、そして何よりも彼らの友人だった。
インタビューで、ニールは「当時私はよく、人々から“あなたはいったいどんな仕事をしてるの?”と言われた。私が “バンドの運転手だよ”と言うと、彼らは“それでどうやって生計を立てているの?”と聞かれていた。2年後(ビートルズが成功すると)、その人達に、“君はラッキーな奴だな、ニール”と言われたよ」と語ったことがある。
1964年、映画“A HARD DAY’S NIGHT”製作中、ニールは将来の妻スージーに出会った。ふたりは1968年に結婚。1967年ビートルズのマネージャーのブライアン・エプスタインの他界に続き、1968年にアップル・コープスが設立されたとき、彼はビートルズから同社の経営を頼まれた。彼は「誰か他の人が見つかるまでのあいだ」という条件で、同社の経営を引き受けたが、彼は昨年までアップル・コープスの責任者でありつづけた。
鋭い洞察力を持ち、革新的で誰からも信頼されたニールは、90年代半ばには“BEATLES AT THE BBC”をはじめとし、記録的ヒットとなった“ANTHOLOGY”、“1”といった現代版のビートルズ商品を立案した。彼がビートルズの数えきれないほどの写真と映像の権利をアップル・コープスに取り戻したことにより、グラミー賞を獲得した“ANTHOLOGY”のテレビ&ビデオシリーズやビートルズの自伝を作ることを可能にした。また90年代の“YELLOW SUBMARINE”の映画とCDの再発売は、60年代の発売当時よりも大きな成功をおさめた。“LET IT BE...NAKED”から最近のシルク・ドゥ・ソレイユ“LOVE”まで、1970年の解散以降のあらゆるビートルズ・ビジネスの成功は、ニール・アスピノールがビートルズとともに舵取りをしてきた。
そしてニールがアップル・コープスを指揮した過去20年間で、ビートルズのアルバムは7,000万枚以上が売れたと報告されている。
彼は自分の功績についての発言ではいつも謙虚だったが、“ANTHOLOGY”プロジェクトが大きな成功を収めていた1995年から96 年のあいだに行なわれたオブザーバー紙のインタビューでは、ニールは、「ビートルズよりビッグになった唯一のバンドはビートルズだ」とコメントし、ドライな機知を発揮した。
アップルのアシスタントでありABCテレビのプロデューサーでもあるデビッド・ソルツは「ニールは、誰もをひきつけた魅力と、とても輝かしくアイデア豊かな人だった。彼は遊び心を持ったグルーヴィーな男だった」と語った。
ニールが「音楽ビジネスではなくビートルズ・ビジネス」と呼ぶその仕事で、彼と共に働く機会に恵まれた誰もが彼を敬愛したが、彼は仕事でも私生活でも徹底して注目を浴びることを避けた。すべては音楽を生み出したバンドの手柄だと言って常にインタビューを断り、彼自身がもてはやされることを避けたのだ。
“ANTHOLOGY”の中でニールは「ビートルズと一緒にいて最も幸せだった思い出は、舞台裏や控室で仲間うちだけで笑いあったり、ジョークを飛ばし合っていたときのことだ。本当に大したことではない。そういう些細な個人的なことが、私にとって大切な思い出となっている」と語った。
アップル・コープスの経営のかたわら、ニールはスージーと一緒にスタンドバイ・フィルムズを設立した。その会社は名高い1999年のジミ・ヘンドリックス映画“HENDRIX : BAND OF GYPSYS”を作った。
またニールの色インクで描いた風刺画の才能は、ごく親しい者以外は知らなかったが、近々に彼の未公開の作品の展覧会が開催されることになり、開催日が発表される予定である。


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