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ポール、“RAM”を語る


ポールの公式サイトが発表した、ポール・ドレイパー(元マンサン)が行ったポールのインタビューの翻訳を一部掲載する。ポールはここで、“RAM”リイシューと作曲について語っている。

ドレイパー:2000年にマンサンが、エア・スタジオでヒュー・パジャムとレコーディングをしていたとき、僕はあなたに会いました。食堂で会ったのですよね。僕たちはパーロフォンから3枚のアルバムを出しました……。

マッカートニー:ああ、そうだ、僕たちはレーベル仲間だ!

ドレイパー:それに僕はリバプールのウェイバーツリー出身です……(中略)では、最初の質問です。“RAM”が最初にリリースされた日、あなたは何をしていましたか?

マッカートニー:覚えてないなあ、うん。そのあたりは「ぼんやりとした年月」だった[ウインクする]。僕はリリースの日ってとくに覚えていないんだ。それって業界の人達にはある意味重要だけど、アーティストにとってはとくに重要ではないんだ。だって、やることやって、ミックスして、ジャケット作って、レーベルのいろんな人と話し、そして日没に姿を消すような感じだから。僕はリリース日を思い出せないけど、アルバムを作っているときや、書いているときについては多くのことを覚えている。でもリリース日がどんなだったかは、思い出せない。

ドレイパー:あなたはスコットランドで多くのときを過ごしたようですね。

マッカートニー:うん、あのアルバムの最初の方、曲を書いているとき、僕は多くの時をスコットランドで過ごした。だいたいにおいて、起きて、家族と朝食を食べ、それから僕の小さなスタジオに行くこともあった。僕はいつも小さな4トラック・スタジオ―ビートルズは4トラックで録音していたからね―を持っていた。4トラックでの録音は、本当に試練だったよ。自分がやっていることを正確にわかっていなければならないし、トラックをバウンスしはじめなければならないだろ。想像できるよね、それに入り込むと、中毒みたいになっちゃう。乗馬をすることもあったよ。リンダは乗馬が大好きだったから。1日のどこかで、僕たちは乗馬をしたものさ。子供と遊ぶこともあった。子供たちも乗馬が好きだった。それから夜はウイスキーを飲んだ。それはスコットランドではふんだんに手に入るんだ。

ドレイパー:私は、あなたがウイスキーをちょっと飲み過ぎたかもと言ったインタビューを見たことを覚えています。

マッカートニー:うん……いや、そうだ、うん。それは当時の特徴だった。だってビートルズの最後の方に起きたことは、とても束縛的だったから。突然会社的な世界にいた。君はそれについてすべて知っているよね。君はそのために音楽を始めたんじゃない。だが、それはそこにあって、まさに現実だ……とくにレーベルに所属しているときは。僕たちはアップル、ビートルズの「アップル」にいて、それはとても重くなって、僕とリンダは子供たちと逃避したが、それでも、そのビジネスの煩わしさはついてまわった。それで僕は自分の心の中に逃げようとした。いつでも飲みたいと思ったときに、1杯飲む自由があった。スタジオに行って、場合によっては1杯飲んだりとかした。僕はたまにやりすぎて、リンダが「あなた、やめなさい」と言うこともあった。

ドレイパー:当時、あなたには仕事をするうえで構造化された方法がありましたか? “McCARTNEY” から“RAM”までに作りためた曲から作業したのでしょうか、それともあなたは新たにライターの壁を経験し、一連の新曲を書いたのでしょうか?

マッカートニー:家でアコースティックギターを持ってぶらぶら過ごしていてできたものもある。大部分のものは、しっかり取り組んで書いた。ジョンと一緒に曲を書いていたときはずっと、ある種のシステムがあった。ノートと鉛筆を持って、ギターかピアノのところで座り、曲を作り、3時間も経たないうちに、曲ができていた。僕たちはいつもそうやっていた。だから僕はその方法を続けたんだ。天気がよかったのでギターを持って野原に出たこともあった。‘Heart Of The Country’や、田園的な曲がそうだったと思う。主に、それが僕がいつもすることだった。そして、ライターの壁にぶちあたったときは、今振り返ってみると、刺激が過剰だったと言えるね。僕は「ヘーイ、ナイスでファジーだ」みたいになって、そういうのって曲を書くにはいいことじゃない。少なくとも僕にとってはね。僕とジョンは曲を書くとき、いつもしらふだった。そして通常、冷静な判断力がある日中に書いた。振り返ってみると、僕がライターの壁をときどき経験したときは、1つのフレーズにこだわりすぎていたことがあった。ほら、「すてきな長い髪のレディ」「美しい長い髪のベイビー」とか、そのフレーズにこだわって何時間も費やしたりして。今僕がやっていること、そしてリバプールの僕の「作曲の生徒たち」に言うことは、壁にぶちあたったら、とにかく強引にすすんで、あとで直すということだ。

ドレイパー:ラム・オン(猛進しろ)!

マッカートニー:(笑)ラム・オン!だからAからZまでたどりつく。もしその間に大きなミスがあってもかまわない、ただ、そのミスのところでつまづかないことだ。僕はあの時期、少しライターの壁を経験したと思うけど、とにかく強引に進んで曲を書き、歌詞をつけて、それを覚えた。それからバンドとやるとき……たとえばニューヨークで“RAM”をやったとき……僕はすべて覚えていた。

ドレイパー:それらをテープに録音しておいたのですか、それとも記憶したのですか?

マッカートニー:テープは持っていなかったんじゃないかな。とにかくルールは、「もしも覚えられないのなら、それはよいものではない」というもので、それは実際とてもいいルールだ! それは必要性があって出てきた。なぜなら僕とジョンはウェイブリッジのジョンの家か僕の家でいつも作曲していて、約3時間一緒に腰を下ろして 「I once had a girl or should I say, she once had me(‘Norwegian Wood’)」みたいなものを書いていた。ジョンが一節を考えつくと、僕たちは腰を下ろしてそれを完成させ、「いいね」と言って笑い、その曲にちょっとしたひねりを加えていった。最終的に、彼女はすてきなフラット、ノルウェーの森を持ち、僕たちは火をともし、それはいいじゃないか、となった。僕たちは、彼女の家を焼き払い、それで彼女も思い知るだろう! と考えた。というわけでとにかく、僕たちはそれを終わらせて、別れて、僕はだいたいロンドンへ車を運転していき、ジョンは彼の1日を過ごし、そして夜になって、ときどき、あの曲はどうなっただろう? と考えた。歌詞を見てみて 「Norwegian wood, I once had a girl……」と歌ってみる。それはこわい瞬間さ。何も書き留めていないんだから。それは、2人の頭の中にしかなくて、僕たちがスタジオに持って行くまで、他の誰もそれを聞いたことがないんだから。いつも起きたことは……神様ありがとう……翌朝目覚めて、それを覚えていること。それは脳のなかで寝かされていて、翌朝目覚めて、 「oh, I once had a girl, oh yeah……」と歌い、それを2、3回演奏してみて、それは、またその日の間、寝かされる。だから僕たちはとにかくすべてを覚えていた。僕たちが持っていた唯一のものは歌詞カードで、彼が1枚書き、僕が1枚書いた。

ドレイパー:あなたが書いた曲といえば、“RAM”のころ、あなたが書いていた曲には2種類あると思われ、それはおそらく60年代後半から続いていたと思われます。自分も曲を書いている僕にとって、あなたが言うように ‘Heart Of The Country’のような本当に有機的なものと、テンポが変わり、とても構造化された、とても複雑な ‘Uncle Albert’のようなものがあります。あなたは初期のプログレロック・ムーブメントに影響を受けたと思いますか。あなたは“RAM”はプログレロック・アルバムだとは言わなかったと思いますが。ラウンドハウスでピンク・フロイドを見たことで影響を受けたと思いますか?

マッカートニー:僕が影響を受けたのは“A TEENAGE OPERA” だ。それはキース・ウエストのとても初期のレコードで、60年代後半に出された……それは彼の唯一と言っていい、ビッグヒットだった。エピソード的で、少し進んだ後「バ・バ・バン」となって、あっちへ行って、こっちへ行って、あっちへ行って[ポールは手で積み重ねて行くジェスチャーをする]。僕たちは「これはおもしろいぞ」と思った。こっちで曲があって、映画のようにカットして別の曲に移り、それからテンポさえカットして遅くなったり。それが最大の影響だった。それから多くの人が、それをやり始めた。僕たちはそれを少しやった。プログレ・ロックをね。(ピート・)タウンゼンドは少しやり初めて、ザ・フーでオペラとかをやった。最初から最後まで同じテンポや同じキーである必要はなく、映画のようにカットしていい、と実感させてくれたのは、その1枚のレコードだと思う。

ドレイパー:あなたは2つの曲の書き方を持っているのですか?なぜなら ‘Heart Of The Country’はあなたが言うように、ただ座って書いたように思えます……。

マッカートニー:うん、それはフォーク・カントリーのようだ。

ドレイパー:他の曲については、とても複雑で入り組んでいるので、緻密に計画されたように思われます。‘Lovely Rita’ のような曲で1小節で2ビート毎にコードを変えるようなところさえ、ライターにとって、もっとも難しいことの一つのことだと思います。だから多くの現代の曲がただビートに合せて変えますが、あなたの一部のものはとても複雑です……。

マッカートニー:うん……ええと、ほら、僕は3コードの初期のロックンロールが出発点だった。僕たちはA、 D、Eの3つのコードを覚えることが最初だった。次にE、A、B7、C、F、G7、いつも3コードだが、違うキーだった。それから僕たちはEからAからCやその他に行き、他に差し込める他のコードを見極めた。そういうわけで徐々に発展して、他のコードを学んで行った。それから「とてもコード的」に作りたい曲があったなら……ちょうど先日考えていたんだ、僕は'Till There Was You’という曲が好きだが、当時、それは『ミュージック・マン』というミュージカルから来たものだと実感していなかった。僕はその曲を聞いて気に入ったので、覚えた。僕は譜面か何かを持っていたとは思わない。コードはとても[肩をすくめる]。これはFで、ディメンテッド(発狂した)・コード(ディミニッシュ・コード)とかを覚えていた。これは、Fディメンテッド! Cデリューデッド(だまされた!) Eディストラクテッド(気が散った!)って感じだった。そうやって、僕たちが使うことができる兵器庫のなかに、奇妙なちょっとしたコードが増えていったんだ。君が言うように、ひとたびそれらをたくさん手に入れると、小節の途中でコードを変えたりできて、それも1つの発展だ。

ドレイパー:作曲しているとき、それを意識的にやっていたのですか?

マッカートニー:うん、それを使ってどこに行くことができるか、とにかくやってみた。僕たちは二度と同じことをしたくなかった。だから、ほら、その日の2曲目に、リンゴが同じドラムセットで同じビートを叩いたときでさえ……なぜなら僕たちはビートルズ初期に、たいてい1日に4曲をやった……僕たちは「君はまた普通にスネアを叩いたよね」と言い、リンゴが「うん」と言うと、僕たちは「じゃあ、荷箱の裏を叩いてもらえないかな」と言った。僕たちはとにかく、次のレコードで同じ音を欲しくなかったんだ。今は、1枚のアルバムでずっと同じドラムセットを使う人で何の問題もないが、僕たちは当時、いつも異なる音を出そうとしていて、どれだけ遠くへ僕たちはそれを押して行くことができるかみてみようとしていた。そのころ、‘Till There Was You’ を覚えようとしていたころ、ヘッシーズ(リバプールの楽器店)が出来たんだ。君はヘッシーズを覚えている?

ドレイパー:はい、もちろんです。僕は子供の時、そこでピックしか買う余裕がありませんでした。

マッカートニー:僕たちもそうだったよ。

ドレイパー:その店はもうそこにありませんね。

マッカートニー:そこは、ギターがたくさんある黄金の宮殿だった。中に入って行くだけで、十分だった。そこで働いているジム・グレッティというがいて、僕たちみんな、ジムと一緒に過ごした。彼は兄貴分的な存在だった。彼はジャズ・ギタリストで、このコード、ビッグなFバレーのやつ、を僕たちに弾いてみせてくれた。でも[ポールがアコースティックギターを手にとる]それはモンスター・コードのようだった。僕たちはそれを覚えた。それはまるで[ギターをかき鳴らす]うわぁ!って感じで……だから僕はそれを当時 ‘Michelle’ に使った。いったんあるコードを覚えると、僕たちは家に帰り、練習した。それはジムがただ店で弾いてみせてくれただけだった。彼はギターを持っていて、「ちょっと待って、それはどうやって弾くの?」という若く向上心あるギタリストにやってみせてくれて、彼はセブンス[かき鳴らす]のようなものをみせてくれて、僕たちの短い指ではほとんど届かなかった[うなずく]。それからそのコードを活用した。それは‘Till There Was You’ に登場し、それから ‘Michelle’ 、だからそうやってすべてがすすんだ。新しいコードを覚えて、それを応用しようとしたんだ。


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